70年代・関西フォーク~関西ロックシーン ②
狂い咲きフォーク
70年代・関西フォーク~関西ロックシーン ① で紹介した、
友部正人さんの「大阪へやってきた」を、初めて聴くことになったラジオ番組が、
『狂い咲きフォーク』という番組。
関西ローカル局で、日付を超えた遅めの深夜枠に、
スポンサーも付かずにオンエアされていた1時間程度の番組でしたが、
番組ホストが、西岡たかし氏と、金森幸介さんのお二人。
西岡たかし氏は、『五つの赤い風船』解散後・ソロ活動時代。
金森幸介さんは、『都会の村人』~『I.M.O.バンド』の頃か、
すでにソロになっていた頃か… (ちょっと記憶がはっきりしません)
後に、このお二人と、長野隆さん・中川イサトさんの4人で、
短命でしたが『五つの赤い風船75』という形で、風船のリユニオンもありました。
関西人二人での、ユルめのしゃべりの合間に、
主にURCレコード系アーティストの楽曲を紹介していました。
(スポンサーという形では無いものの、
URCレコードのバックアップが有ったのかもしれません。)
番組タイトルの『狂い咲き』は、岡林信康のライブ盤からとったネーミングですが、
お二人は、すでに御大化していた岡林あたりを、少々煙たがっていたようで…
関西ローカルと言う事もあってか、かなり独特の(というか偏った)選曲でした。
この番組を通してしか聴くことができなかったアーティスト、
初めて知る事になったアーティストも多く、
当時中学生の私には、非常に貴重な情報源でした。
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六番町コンサート
この『狂い咲きフォーク』や、当時の音楽雑誌や、
イベント情報誌(後のピア等)の先駆けといえる、関西ローカルのミニコミ誌
『プレイガイドジャーナル』(通称 プガジャ)を、通じて知ることになったのが、
福岡風太氏が、1971年から毎年5月のゴールデンウィークに、
天王寺公園内の野外音楽堂(天王寺野音)で2日連続で開催していた
『春一番コンサート』
中学高校時代のわたしにとっては、憧れのイベントだったのですが…
通っていた学校の『文化祭』が、ちょうど毎年ゴールデンウィークの期間中にあたり、
生意気にも、自分自身が唄ったり、バンドやったりし始めた頃でもあり、
自校の『文化祭』を優先してしまいまして…
残念ながら、在学中に『春一番コンサート』を、観にいく事は出来ませんでした。
唯一、74年(だったかな??)だけは、
本番前日に無料の公開リハーサルを観に行っています。
(祝日の前日で、学校が代休になっていたのかも??)
リハーサルと言うより、本番のブッキングにもれたグループや、
アマチュアバンドも出演する、フリーコンサートでしたが、
無名時代の、スクリーミング・マッド・ジョージのバンドの、
三上寛の「最後の最後の最後のサンバ」の、ムチャクチャな演奏を目撃すると言う
貴重な体験をすることができました。
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『春一番コンサート』をようやく観に行ける様になったのは、
大学に進んでからになってしまいましたが、
中学高校時代に頻繁に通う事が出来たのは、同じく福岡風太氏が主催して、
難波の髙島屋の8階(か9階??)に有った髙島屋ホールで行われていた、
『六番町コンサート』
入場料は、中高生にも嬉しい、たったの100円!!
(難波までの往復の電車賃の方が高かったはずです…)
開演時間も、デパートの中の施設と言う事もあってか、
午後5時頃からデパートの閉店時間の7時頃まで と、
真面目な(??)中高生にも、観に行きやすいイベントでした。
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ちなみに、西岡たかし氏も、後追いですが、
髙島屋のライバルともいえる心斎橋の三越大阪店の三越ホールで、
『ニコニココンサート』
という、やはり100円で、同じ様な形態のコンサートを主催し、
たしか…
わざわざ『六番町コンサート』と同じ日にぶつける事も有ったような気がします。
西岡氏と風太氏の間には、『春一番コンサート』でのトラブルによる軋轢が有った様で、
(西岡氏が、持ち時間を無視して、大幅に時間オーバーの演奏を続けた)
ライバル意識というより、敵対感を持っていたのかもしれません。
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当時『六番町コンサート』で実際のライブに触れることができたのは、
高田渡、シバ、アーリータイムス・ストリングス・バンド、
布谷文夫、中山ラビとスラッピージョー、
ジャム(吉田日出子、演劇の方の佐藤博 等) etc
(敬称略)
実は、解散直前のはっぴいえんども出演しており、
当然、わたしも観にいくつもりだったんですが…
当日になって突然(原因は思い出せない…)難波へ行く事が出来なくなり、
現役のはっぴいえんどの演奏を目撃できた、という機会を逃してしまいました!!!
これだけは、今でも心残りです…
この『六番町コンサート』で、
ソロ1作目のアルバム『箱舟は去って』(細野晴臣、林立夫も参加)
をリリースした直後の、金森幸介さんのライブを観たのが、たしか73年。
今聴くと、女々しくも気恥ずかしくもある “うた” か多いのですが、
無垢な(??)10代の心には、十分に響くものがあり、
金森幸介さん自体、大好きだったのですが…
問題は、その時のバックバンドの4人!!
元バッドクラブバンド(w/上田正樹)の 石田長生(ギター) 佐藤博(ピアノ)
元オイルフット・ブラザーズの 田中章弘(ベース) 林敏明(ドラム)
(敬称略)
4人とも、アルバム『箱舟は去って』のバッキングにも参加していますが、
その当時の大阪でのライブでは、金森幸介さんだけではなく
さまざまなシンガーのバックで見かけることになる常連メンバーでした。
とにかくこの時期、色々な場面で、この顔ぶれを、
お見掛けしていた記憶があります。
大塚まさじさん、ながいようさんが、
ディランⅡの前に、西岡恭蔵さんと3人で組んでいた、
オリジナル・ザ・ディラン の1974年のリユニオンアルバムにも参加。
ディランⅡの解散コンサートでも、
この顔ぶれで、安田南さんのバッキングも勤めていたと思います。
確か… THIS(ディス)というバンド名を使っていたような記憶があります。
(ちょっと記憶があいまいですが…)
1974年の加川良さんのアルバム『アウト・オブ・マインド』にバッキングで参加時に、
石田長生さん以外の3人を引き抜いたのが、元はっぴいえんどの鈴木茂氏。
そのままハックルバックとして活動を始めます。
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その後、石田長生さん・佐藤博さんのお二人は、
東京・大阪で、 それぞれの音楽シーンを作っていくことになります。
さらに続く…