70年代・関西フォーク~関西ロックシーン ①

10代の頃の私的な思い出話…

関西の、まがりなりにも中高一貫の進学校に通っていた頃、
中学の2年までは、全く(ややこしい)音楽とは関わりのない
(健全な)生活をおくっておりました。

成績もそこそこ良い方で、
両親の期待通りに国立大学を目指し。
そのままいけば、それなりの企業に就職。
還暦をすぎても…

家族に囲まれた悠々自適な生活
が待っていた。

かもしれません…

だったら… 

そもそも、こんなブログやってない!!

わたし自身の生まれ持ってのアウトロー気質に火を付け、
道を踏み外させる危険な物が… 
世の中には沢山有ったんですねぇ

 関西フォーク

時は1972年、大阪万博から2年目の昭和元禄時代。
『フォークブーム』というものがありまして…

自作自演で生ギター(*)一本有れば、
誰でも唄い出すことができて、レコードまで出せる!!
(* アコースティック・ギターなんて洒落た呼び方はしていなかった)

それまでテレビの中でしか触れてこなかった
「(ちょっとアブナイ)音楽」が、突然身近なものになり、
思春期の中学生の健全な生活を、
ジワジワと侵食していく事になるとは、
つゆ知らず…
人生最初の文化的初期衝動の、おもむくままに、
(でも…まだ中学生なので、父親にねだって…)
わたし自身も、安い生ギターを手に入れる事になりました。

もちろん最初は、一般的なメジャーな作品しか知らなかったわけですが、
どうも、そういった(わりと健全な)な歌い手たちとは違う
『関西フォーク』というものをやってる、
ちょっとヤバそうな人たちが居るらしい…

 URCレコード

まあ、順当に、
岡林信康高石ともや あたりを、ラジオで聴くことになるのですが、
正直… あんまりピンと来ない… 
というか、感性に響かん… (なにを中学生が偉そうに!!)

そのうち、岡林や高石のレコードは、
東芝とかビクターとかの大きなレコード会社からも出てましたが、
もともと、『URCレコード』というマイナーレーベルが、
製作しているという事を知ることになります。
この URC = Underground Record club
(アンダーグラウンド・レコード・クラブ)
というネーミングにも、強烈に惹きつけられてしまいました。

断片的にラジオから流れる、
高田渡加川良シバ三上寛
五つの赤い風船、そして、はっぴいえんど
今思うと、それぞれバラバラなルーツを持った人達なんですが、
当時は、『URCレコード』と言う、アングラで、マイナー
カウンターカルチャーに、ひとくくりにされていたように思えます。

そのすべてのアーティスト達に共通する、
いわゆる“フォークソング”の健全な雰囲気とは違う

 “毒”

 友部正人『大阪へやってきた』

たまたま、通ってい学校の帰り道に、

「生駒レコード」

という小さなレコード屋さんが有りまして、
そこは、その頃まだ全国的な流通に乗っていなかった
URCレコードの取り扱い店でした。

もちろん中学生の小遣いでは、レコードを買うと言うのは大変な事で、
ましてLPとなると、思いっきり悩んで1枚を選ぶことになる訳ですが…

その日はLP一枚分(当時1,500円)の小遣いを握りしめ、
お店に入るなり、迷うことなく手に取ったのは、

 友部正人さんの ファースト・アルバム
 『大阪へやってきた』!!

以前から、漫画家の真崎守氏(共犯幻想・はみだし野郎の伝説 等の作者)が描く、
プロペラで空を飛ぶ “金魚ジャケット” の、このLPが気になっていたのですが、
その直前にラジオで聞いてしまった
タイトル曲「大阪へやってきた」強烈な衝撃を受け
学校帰りに、一目散に買いに行ったわけです。

「大阪へやってきた」は、それまで聴いたことも無かった
“トーキング・ブルース”と言われる形態の曲でした。

生ギターの、かき鳴らすようなインパクトのあるリフと、
マイナーコードのシンプルなピッキングだけをバックに、
歌詞でもなく、現代詩でもない、普通の “コトバ” が乗かっていく…

その “コトバ” が、演奏に乗る事で “うた” が成立する!!

後年、遠藤ミチロウ氏が、
ザ・スターリン解散後に目指していたという “うた” の概念を、
この時代の、それも初めてのアルバムで、
見事にやってのけてしまっていました。

声の質曲調から、和製B・ディランと評される事もあった人ですが、
この口語体での“うた”の成り立ちこそ、
B・ディランとの共通点ではないかと思います。

まあ… 今だから、こんなコムヅカシイ表現になってしまいますが、
当時の中学生のわたしはにとっては、

「なんやこれ?!  なんかわからんが!!  すごい!!!」

と、いう感じでしたが…

この時の、この曲との出会いが、音楽のみならず
わたしにとって初めての

“オルタナティブ な(既存・主流のものに代わる)表現”

との出会いになったと思います。

まぁ… 要は… 
いろいろと道を踏み外していくキッカケになったわけです

Hee Hyeong Moonさんのビニール・リップ動画をお借りします

阪急芦屋川駅の近くに、『芦屋ルナ・ホール』という、
実にハイソな立地のホールであるにもかかわらず、
当時から、カウンターカルチャー寄りのイベントにも
理解があるホールが有ったのですが、
そこで、実際に友部正人さんのライブを体験することになりました。

たしか、CBSソニーに移籍して3作目『また見つけたよ』の発表直後だったので、
初めて「大阪へやってきた」を聴いてから数年後で、
すでに私も高校生になっていた頃だったはずです。

(まさか、数年後にわたし自身が某パンクバンドで、このホールに立つとは、
また、そのバンドの解散ライブで、友部さんと同じステージに立つとは、
この時には、つゆほども思っていませんでした。)

ちょっと記憶が曖昧なんですが、
三上寛氏も同じ日に出でいたかもしれません…
(もしかしたら別の日かも…?)

三上寛のステージも、強烈に“毒”をぶちまけてくれて、
わたしの情操をぐちゃぐちゃにしてくれたのですが、

友部さんのライブは、ゆっくりとジワジワ何年も(何十年も)かけて効いてくる

非常に奥深い“毒”を内包していたのではないかと、

今になって思っています。

『芦屋ルナ・ホール』は、
あまり大きなホールではなかったのですが、
中央にマイクスタンドが1本だけ
というシンプルすぎるステージ

たった一人で唄う友部さんの姿が、

どんなロックバンドよりも

大きな存在感を持って見えたのは

ステージの後ろに大きな影を映し出す
フットライトのせいだけではなかったはずです。

友部正人の “うた” には、“風景” が見える!!

それは、受け止める人それぞれで違う “風景” だとしても、
“うた” の向こう側に、たぶん、
どこにも存在しなかったかもしれない “風景” が、ゆっくりと立ち現れる。
そして、その “うた” は、たいてい “結論” という “終着点” を持たない。
着地点を失った無数の断片的な “風景” が、脈絡なく浮かんでは消えていく
それは、何年・何十年たっても時空を超えてフラッシュバックする。

心の奥深いところに突き刺さった柔らかく優しい “毒” として!

40数年前ルナホールのステージでも、彼の後ろに
巨大なモニタースクリーンの如く、無数の “風景” を、
確かに私は見ていたんだ!!!

…と、

ついつい興奮して、文体が… 人格までも… 
変わってる…

まぁ… わたし、多重人格者も多いといわれてる 

AB 型

なもので…
大目に見てネ…

まだまだ、つづく…

人格崩壊しそうになったところで、
今回のテーマとは関係ないですが
ジョニーについても、そのうち書きたいと思ってます。

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