寺山修司 『田園に死す』
70年代前半、
関西在住の中学生だったわたしにとって、
“東京のあんぐら演劇” は、
断片的な情報からイメージだけか膨らむ、
実際に体験することの叶わない存在だった。
唐十郎の “状況劇場” からの、
間接的で断片的な刺激については、
唐十郎 幻の「赤テント」で、
書かせてもらったが、
寺山修司の “天井桟敷”
についても同じ様な状態だった。
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/image.jpg?resize=436%2C618&ssl=1)
映画 “Les Enfants du Peradis” から、
その名を採ったと言う
寺山修司主宰の劇団 “天井桟敷”
“状況劇場” との間では、
逮捕者も出たという抗争騒ぎも有ったらしいが…
東京、渋谷の並木橋に有った “天井桟敷館”
(76年には麻布十番へ移転)
での実際の演劇の舞台は、
もちろん観る事が出来なかった。
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/CvnDO8XUEAEgket.jpg?resize=414%2C517&ssl=1)
そんな当時のわたしにとって、
唯一の寺山修司体験と言えたのは、
やはり映像作品だった。
当時、A.T.G.(アート・シアター・ギルド)が配給を行っていた
1974年の映画『田園に死す』
を、高校生のころだったか、
(大学に上ってからだったか?)
神戸か大阪での上映会で観ている。
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当時のわたしに、
映画の内容が理解できていたとは思えないが…
10代の情操を思い切り掻き乱す様な、
強烈なイメージが、断片的にではあるが、
脳裏に焼きつけられる事になった。
それ以来この作品が、わたしの中では、
「寺山修司と言えば、この映像!!」と言う、
勝手な位置付けになってしまっている。
2000年代になって、
DVD化されてたこの作品を
今回、改めて見直してみた。
まずは、DVDのパッケージ。
(これは、映画上映当時のポスターだったのか?)
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横尾忠則や、篠原勝之がビジュアルを手掛けた、
“状況劇場” の、“都市のアンダーグラウンド”
というイメージに対して、
花輪和一によるイラストが象徴するのは、
“辺境への畏敬と、断ち切れない土着の引力”
とでも表現すれば良いのだろうか…
そして、映画のストーリー(らしきもの…)
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恐山の麓、
戦争の名残が残る閉鎖的な寒村。
寺山自身の出身地でもある
青森県下北を舞台に、
主人公の映像作家が、
自ら製作する映画を通して、
少年時代の自分と対峙する。
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壊れた柱時計に封じ込められた時間を、
自らの時計に入れて持ち出すかのように、
家を出ようとする
15歳になったばかりの少年時代の主人公。
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息子に共依存する母を断ち切り、
結納金で買われた隣家の新妻との駆け落ちを謀る。
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自らの記憶の、虚構と現実を見極める為に、
少年時代の自分と出会い、
20年前の故郷での時間にたち戻る、
大人になった主人公。
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過去の母を殺す事で、
自らの少年時代と故郷の呪縛を断ち切り、
時間を “やり直そう” とするが…
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/VTS_01_4.VOB_000989334.jpg?resize=447%2C298&ssl=1)
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/ve69caa293-175x300-1.jpg?resize=129%2C221&ssl=1)
この作品は、
戯曲の映像化では無く、
映画の為の
オリジナル・ストーリーだった様だ。
寺山の同名の歌集『田園に死す』が、
1965年に発表されており、
同歌集からの短歌が、
劇中では効果的に使用されている。
しかし、この作品は、
ストーリー云々と言うよりは、
1974年と言う時代だからこそ生まれ得た、
アートの領域まで進化した実験映像の集大成ともいえる、
強烈なイメージの洪水の様な作品
と言えるのではないだろうか。
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少年時代の主人公が、
母と二人で暮らす
古い木造の日本家屋は、
まるで座敷牢の様に、
ひたすら暗く描かれているのに対して、
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/VTS_01_1.VOB_000360977.jpg?resize=447%2C298&ssl=1)
外の世界への扉とも言える、
ドサ周りのサーカス一座を描くシーンでは、
極彩色のエフェクトが施されている。
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さらに、
現在(20年後、1974年頃)の東京のシーンは、
映像作家の主人公が、自らの映画で描く、
虚偽の過去の上に成り立つ虚像の様に、
モノクロで描かれる。
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/VTS_01_2.VOB_001124315.jpg?resize=458%2C305&ssl=1)
狂言回しの様に登場し、
恐山で踊り狂う狂女。
登場人物達の、
心の闇や焦燥感を静かに煽る。
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黒い衣装で、片目に眼帯を付けた、
閉鎖的で、排他的なコミュニティーを
象徴するかのような老婆達。
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父親の判らない、
死産の女の赤ん坊を川に流し、
半狂乱で川に呑まれる少女。
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/VTS_01_3.VOB_000782667.jpg?resize=464%2C310&ssl=1)
生まれる事すらできず、重ねて、
この世でも間引かれる赤ん坊を、
弔うかの様に、
雛壇ごと河を流れてくる雛飾り。
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/VTS_01_3.VOB_000867301.jpg?resize=465%2C310&ssl=1)
サーカス団の空気女や一寸法師。
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/VTS_01_2.VOB_000373064.jpg?resize=464%2C309&ssl=1)
少年時代の主人公を取り巻く狭い社会の中では、
八千草薫演じる隣家の新妻と、
東京から舞い戻った、間引き少女を除いては、
数少ない、外の世界の住人だが、
少年が夢見る外の世界の現実を見せつける様に、
まるで、フリークスの様な、
異様な集団に描かれている。
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/VTS_01_3.VOB_001058492.jpg?resize=467%2C311&ssl=1)
主人公の虚飾をたたき壊す様に、
牛小屋で「カラス」を歌う “牛(三上寛)”
後半の、田の畔道では、
三上寛本人として登場する。
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/VTS_01_2.VOB_001234225.jpg?resize=470%2C314&ssl=1)
粟津潔がデザインを担当し、
劇場の大道具の様に配置された
看板やオブジェは、
田園風景をも異世界に変える。
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/VTS_01_4.VOB_000085931.jpg?resize=470%2C313&ssl=1)
そして、
20年前の故郷で、現在(20年後)の主人公は、
過去との決別の象徴としての母殺しを断念し、
母との時間の中に戻っていく。
そして、最後のシーン。
「生年 昭和49年。
本籍地 東京都新宿区新宿 字 恐山」
というナレーションと共に、
突然20年前の実家のセットが倒れ、
現在(20年後)の新宿東口の光景が広がる。
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/VTS_01_4.VOB_001083311.jpg?resize=461%2C308&ssl=1)
(当然、まだアルタは無い。撮影場所は
たぶん現在は、喫煙スペースになっている場所だと思われる)
母を殺すことも、
過去をやり直すことも出来ず、
現在の自分自身のアイデンティティーを、
20年前の時間の中に認めたと言う事なのだろうか?
現在(20年後)の新宿のシーンは、
主人公にとっての “少年時代の嘘” が、
ようやく “現実” に変化したかの様に、
初めてカラーで描かれ、
20年前の登場人物達も、
その街中を、生き生きと動きまわっている。
このエンディングを、
諦めと捉えるか、
救済と捉えるかは、
観る者の判断に委ねられるのか…?
この映像群を、
さらに効果的に盛り上げている、
唯一無二の音楽を担当しているのは、
寺山作品には欠かせないアーティスト
J.A.シーザー
(ジュリアス・アーネスト・シーザー
本名 : 寺原 孝明)
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/707be212c425dd5f80d03ef5623dc331.jpg?resize=460%2C273&ssl=1)
御詠歌の様なサイケデリックな音楽は、
ドメスティックなアシッド・フォーク
という解釈も可能かもしれない。
サウンド・トラックは、
2002年にCD化再発されている。
![](https://i0.wp.com/yoo-gto.com/wp-content/uploads/2021/01/R-1274191-1205572380.jpeg.jpg?resize=137%2C135&ssl=1)
J・A・シーザー『田園に死す』(1974)
A-1 こどもぼさつ
Vocals : 児童合唱団
A-2 謎が笛吹く影絵が踊る
Performer : 犬神サーカス・バンド
Vocals : 天井桟敷
A-3 化鳥の詩
朗読 : 八千草薫
A-4 地獄篇
Vocals : 新高恵子. 天井桟敷合唱団. 東京混声合唱団
A-5 母恋餓鬼
Vocals : J・A・シーザー
A-6 桜暗黒方丈記
Vocals : 児童合唱団. 天井桟敷合唱団
A-7 惜春鳥
Vocals : 天井桟敷合唱団. 東京混声合唱団. 蘭妖子
A-8 短歌
朗読 : 寺山修司
B-1 空気女の唄
Performer : 犬神サーカス・バンド
Vocals : 新井沙知
Voice : 中沢清
B-2 カラス
Vocals : 三上寛
B-3 和讃
Vocals : 児童合唱団. 新高恵子. 天井桟敷合唱団. 東京混声合唱団
B-4 せきれい心中
Vocals : 新高恵子
B-5 人々はどこへ
Vocals : 天井桟敷合唱団. 東京混声合唱団