寺山修司 『田園に死す』

70年代前半、
関西在住の中学生だったわたしにとって、
“東京のあんぐら演劇” は、
断片的な情報からイメージだけか膨らむ、
実際に体験することの叶わない存在だった。

唐十郎の “状況劇場” からの、
間接的で断片的な刺激については、
唐十郎 幻の「赤テント」で、
書かせてもらったが、

寺山修司の “天井桟敷”

についても同じ様な状態だった。

映画 “Les Enfants du Peradis” から、
その名を採ったと言う
寺山修司主宰の劇団 “天井桟敷”

“状況劇場” との間では、
逮捕者も出たという抗争騒ぎも有ったらしいが…

東京、渋谷の並木橋に有った “天井桟敷館”
(76年には麻布十番へ移転)
での実際の演劇の舞台は、
もちろん観る事が出来なかった

渋谷 並木橋 天井桟敷館

そんな当時のわたしにとって、
唯一の寺山修司体験と言えたのは、
やはり映像作品だった。

当時、A.T.G.(アート・シアター・ギルド)が配給を行っていた

1974年の映画『田園に死す』

を、高校生のころだったか、
(大学に上ってからだったか?)
神戸か大阪での上映会で観ている。

当時のわたしに
映画の内容が理解できていたとは思えないが…

10代の情操を思い切り掻き乱す様な、
強烈なイメージが、断片的にではあるが、
脳裏に焼きつけられる事になった

それ以来この作品が、わたしの中では、
「寺山修司と言えば、この映像!!」と言う、
勝手な位置付けになってしまっている。

2000年代になって、
DVD化されてたこの作品を
今回、改めて見直してみた。

まずは、DVDのパッケージ。

(これは、映画上映当時のポスターだったのか?)

横尾忠則や、篠原勝之がビジュアルを手掛けた、
“状況劇場” の、“都市のアンダーグラウンド”
というイメージに対して、

花輪和一によるイラストが象徴するのは、
“辺境への畏敬と、断ち切れない土着の引力”
とでも表現すれば良いのだろうか…

そして、映画のストーリー(らしきもの…)

恐山の麓
戦争の名残が残る閉鎖的な寒村
寺山自身の出身地でもある
青森県下北を舞台に、

主人公の映像作家が、
自ら製作する映画を通して、
少年時代の自分と対峙する

壊れた柱時計に封じ込められた時間を、
自らの時計に入れて持ち出すかのように、
家を出ようとする
15歳になったばかりの少年時代の主人公

息子に共依存する母を断ち切り、
結納金で買われた隣家の新妻との駆け落ちを謀る。

自らの記憶の、虚構と現実を見極める為に、
少年時代の自分と出会い、
20年前の故郷での時間にたち戻る
大人になった主人公

過去の母を殺す事で、
自らの少年時代と故郷の呪縛を断ち切り、
時間を “やり直そう” とするが…

この作品は、
戯曲の映像化では無く
映画の為の
オリジナル・ストーリーだった様だ。

寺山の同名の歌集『田園に死す』が、
1965年に発表されており、
同歌集からの短歌が、
劇中では効果的に使用されている

しかし、この作品は、
ストーリー云々と言うよりは、

1974年と言う時代だからこそ生まれ得た、
アートの領域まで進化した実験映像の集大成
ともいえる、

強烈なイメージの洪水の様な作品

と言えるのではないだろうか。

少年時代の主人公が、
母と二人で暮らす
古い木造の日本家屋は、
まるで座敷牢の様に、
ひたすら暗く描かれているのに対して、

外の世界への扉とも言える
ドサ周りのサーカス一座を描くシーンでは、
極彩色のエフェクトが施されている

さらに、
現在(20年後、1974年頃)の東京のシーンは、
映像作家の主人公が、自らの映画で描く、
虚偽の過去の上に成り立つ虚像の様に
モノクロで描かれる

狂言回しの様に登場し、
恐山で踊り狂う狂女
登場人物達の、
心の闇や焦燥感を静かに煽る

黒い衣装で、片目に眼帯を付けた、
閉鎖的で、排他的なコミュニティー
象徴するかのような老婆達

父親の判らない、
死産の女の赤ん坊を川に流し、
半狂乱で川に呑まれる少女

生まれる事すらできず、重ねて、
この世でも間引かれる赤ん坊を、
弔うかの様に、
雛壇ごと河を流れてくる雛飾り

サーカス団の空気女や一寸法師

少年時代の主人公を取り巻く狭い社会の中では、
八千草薫演じる隣家の新妻と、
東京から舞い戻った、間引き少女を除いては、
数少ない、外の世界の住人だが、
少年が夢見る外の世界の現実を見せつける様に、
まるで、フリークスの様な、
異様な集団に描かれている。

主人公の虚飾をたたき壊す様に、
牛小屋で「カラス」を歌う “牛(三上寛)”
後半の、田の畔道では、
三上寛本人として登場する。

粟津潔がデザインを担当し、
劇場の大道具の様に配置された
看板やオブジェは、
田園風景をも異世界に変える

そして、
20年前の故郷で、現在(20年後)の主人公は、
過去との決別の象徴としての母殺しを断念し
母との時間の中に戻っていく

そして、最後のシーン

「生年 昭和49年。
本籍地 東京都新宿区新宿 字 恐山」

というナレーションと共に、
突然20年前の実家のセットが倒れ
現在(20年後)の新宿東口の光景が広がる

(当然、まだアルタは無い。撮影場所は
たぶん現在は、喫煙スペースになっている場所だと思われる)

母を殺すことも、
過去をやり直すことも出来ず

現在の自分自身のアイデンティティーを、
20年前の時間の中に認めたと言う事なのだろうか?

現在(20年後)の新宿のシーンは、
主人公にとっての “少年時代の嘘” が、
ようやく “現実” に変化したかの様に、
初めてカラーで描かれ
20年前の登場人物達も、
その街中を、生き生きと動きまわっている

このエンディングを、
諦めと捉えるか、
救済と捉えるかは、
観る者の判断に委ねられるのか…?

この映像群を、
さらに効果的に盛り上げている、
唯一無二の音楽を担当しているのは、
寺山作品には欠かせないアーティスト
J.A.シーザー
(ジュリアス・アーネスト・シーザー
本名 : 寺原 孝明)

御詠歌の様なサイケデリックな音楽は、
ドメスティックなアシッド・フォーク
という解釈も可能かもしれない。

サウンド・トラックは、
2002年にCD化再発されている。

J・A・シーザー『田園に死す』(1974)

A-1 こどもぼさつ
Vocals : 児童合唱団
A-2 謎が笛吹く影絵が踊る
Performer : 犬神サーカス・バンド
Vocals : 天井桟敷

A-3 化鳥の詩
朗読 : 八千草薫
A-4 地獄篇
Vocals : 新高恵子. 天井桟敷合唱団. 東京混声合唱団
A-5 母恋餓鬼
Vocals : J・A・シーザー
A-6 桜暗黒方丈記
Vocals : 児童合唱団. 天井桟敷合唱団
A-7 惜春鳥
Vocals : 天井桟敷合唱団. 東京混声合唱団. 蘭妖子
A-8 短歌
朗読 : 寺山修司

B-1 空気女の唄
Performer : 犬神サーカス・バンド
Vocals : 新井沙知
Voice : 中沢清

B-2 カラス
Vocals : 三上寛
B-3 和讃
Vocals : 児童合唱団. 新高恵子. 天井桟敷合唱団. 東京混声合唱団
B-4 せきれい心中
Vocals : 新高恵子
B-5 人々はどこへ
Vocals : 天井桟敷合唱団. 東京混声合唱団

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