アングラ・テント芝居 補足

“暗黒(前衛)舞踏”

中学の頃、毎月読んでいた、関西のイベント情報誌
『プレイガイド・ジャーナル』(通称:プガジャ)を頼りに、

大阪まで観に行ったイベント、
“クロス・コリレーション(??… だったと思う…)”

前衛舞踏と現代音楽のコラボといった内容のもので、

音楽を担当していたのは、
タージマハル旅行団の小杉武久だった。
(実は…全く印象に残っていない…)

何よりも、強烈に覚えているのは、

全身白塗りダンサー(舞踏家?)数人が、
引き攣った様な動きで踊り(?)ながら
客席に向かって、炊いた飯を投げつけてくる!!

という、大阪の “日本維新派” のメンバーによる
パフォーマンスだった。

土方巽(ひじかた たつみ)の名前や、

元状況劇場の麿赤兒(まろ あかじ)の主宰する、
舞踏集団 大駱駝艦 の噂も、

断片的に耳していたが、

わたしにとっては、これが、
前衛的な “暗黒舞踏” の初体験になった。

狭い会場で、目と鼻の先で繰り広げられた、
初めて見る異様なパフォーマンスに、
当時中学生だったわたしは、
一瞬たじろぎはしたが、

そのうち、その “暗黒舞踏” と言う、
ひとつの “フォーマット・様式”
に沿った動きに、
多少の滑稽さを覚えてしまった
(実に生意気なガキだった訳で…)

また、
“暗黒舞踏” のフォーマットを取りながらも、
飯を投げつける… と言う、
実に大阪っぽく
東京のシリアスな様式美にとらわれない、
関西人らしい
ゆるく・ユーモラスな部分も感じられた

“暗黒舞踏” について、
ウィキペディアによると

調和 – 過剰、
美 – 醜、
西欧近代 – 土着・前近代、
形式 – 情念、
外への拡がり(extension) – 内的強度(intensity)

といった対において、
後者のなかにこそ見いだせる
倒錯した美を追求する踊り、
と言える。

跳躍などのテクニックにより天上界を志向する
クラシックバレエなどとは異なり、
床や地面へのこだわり、蟹股、低く曲げた腰
などによって下界を志向する。

一般に剃髪、白塗りのイメージが強い。
ビキニ状の衣装で局部を隠し、
裸体の上から全身白塗りする事が多いが、
白塗りは必須ではない。

…という “定義” 付けに、なっている。

80年代になると、
山海塾白虎社の様に、
海外で高い評価を受ける団体も現れ、

山海塾
白虎社

“コンテンポラリー・ダンス” と言う、
こじゃれたジャンルにカテゴライズされ、
ある程度メジャーな存在になっていく。

“暗黒舞踏” は、
80年代以降 “Butho(舞踏)” という
一つの“様式”に収束してしまった様に思える。

“日本維新派”

“日本維新派” は、
松本雄吉氏の主催する大阪の劇団で、

舞踏集団ではない。

わたしが初めて体験した
前述のイベントでは、
たまたま “舞踏” という
パフォーマンスを行ったのだと思う。

確かに70年代の日本維新派は、
“暗黒舞踏” のフォーマットを取り入れていたけれど、
あくまでも、“舞踏” ではなく“芝居” を行う集団だった。

「足の裏から冥王まで」1975年

その後、
劇団員自らが巨大な野外劇場を建設し
(大がかりなセットの設営には、
スポンサーを付ける必要が有ったはず)
大阪の劇団らしい、“芝居” を、
関西中心に行っていた。

さらに後年、1991年。

東京・汐留旧国鉄コンテナヤードで、
維新派の東京初公演
ヂャンヂャン☆オペラ「少年街」
が行われた。

ヂャンヂャンと言うのは、大阪・天王寺の
ジャンジャン横丁に由来するネーミング。

大阪弁のセリフを、リズミカルに使用し
70年代の東京のテント芝居の様な、
シリアスな長セリフは、ほとんど無い

銀座・新橋に隣接する、
当時のトレンディーなロケーションでの、
大がかりな回り舞台の特設会場公演で、
集客も、かなりなものだった。

元妻との結婚前の2回目のデートが、
この野外芝居だったのだけれど、
あんぐら文化には全く興味のない元妻も、
当日は、かなり楽しんでいた様子だった。

1999年『水街』

海外での公演も行い、
完成度も高くなっていた

しかし…
80~90年代を通じて、いつの間にか、
“お洒落なサブ・カルチャー”
に、なってしまった様に感じてしまう…

“曲馬館” ~ “風の旅団”

話は遡って…

わたしにとっての遅ればせながらの
初めてテント芝居体験となったのは、
大学時代の後半。

たしか、1980年、母校の大学祭

桜井大造が主宰する “曲馬館” の関西公演、
『海峡外伝・修羅と砦
 - 第九回 野晒しテント興行』
が、
学内の野外グラウンドで行われた。

時代的に、
既に70年代初頭のあんぐらテント芝居とは、
かなり毛色の違うものではあったが、
別の意味で、
さらに過激な内容の公演だった。

極度に政治的で、反日、朝鮮、被差別問題
等を主題にする劇団の公演と言う事で、
ノンポリ・プチブル
(ノン・ポリシー、プチ・ブルジョアジー 死語…)
の大学生には、
なかなかハードルが高い内容ではあったが…

演出面でも、
屠殺された動物の骨を積んだ、
燐の炎を表す火が燃えるトロッコが、
客席の通路を移動したり、

最後には、ステージ裏手のテントが落され
舞台裏手に灯油がまかれて、炎が燃えあがる!!

という、今ではとても再現不可能な、
過激な内容!!

70年代アングラ文化が、
文学・戯曲・エンターテイメントとして、
サブ・カルチャーと言う名の、
メジャーな文化に昇化していく中で

この劇団のベクトルは、さらに地下へ向かっている様だった。

1982年には
風の旅団” “驪団(りだん)” “夢一族” に分裂している。

たまたま大学がわたしと一緒で、
音楽絡みで知り合った、
小間慶大君も、後に “風の旅団”
役者として参加することになる。

小間君は、町田町蔵君のバンド “INU(イヌ)”
2代目のギタリスト

知り合った当時は、“INU” のギターは、
すでに北田昌宏君に代わっており、
彼は、やはり “INU ”
初代ドラマーだった西森タケル君達と、
“U.P.メーカー(ユーピー・メーカー)” という、
レゲエっぽいバンドでギターを弾いていた。
(『み・ん・な』と言う、
E.P.レコードも出していた。)

彼は(確か北田君も)、
大学の中・高等部から進学しており、
学年的には、わたしの2つ下で、
当時わたしがバンド手伝っていた、
“変身キリン” の、
須山公美子達とも同学年。

ちなみに、阪急電車の沿線で、
隣の駅の女子高(かなりのお嬢様校)には、
アント・サリーのPhewが通っていた。
(確か、1学年下)

この年代で、母校の大学周辺の、
パンク・ニューウェーブ絡みの音楽に関わっていたのは、
典型的な中産階級家庭で育った
大学生が多かった様に思える。

そんな彼が、どういう経緯で “風の旅団” に、
関わるようになったのかは解らないが、

わたしが大学を卒業して、社会人1年目。

小間君から、劇団の運営資金のカンパと言うか、
投資と言うか… 
とにかく幾許かの金額を用立てられないか、
という相談を受けた事が有った。

新入社員の給料から考えると、
ちょっと厳しい金額だった事は確かだが、
その時は、冷たく断ってしまった…

今になって考えると、
当時の時流に沿って、
スポンサーを付ける訳でもなく

時代に逆行しつつも、
自分たちの表現を貫こうとしていた彼らに、

当時の甲斐性無しの自分が、
協力できなかった事を、申し訳なく思う。

(まぁ… 今も立派に甲斐性無しだけどネ…)

『泪橋哀歌 夢魔と狂騒』(1978)

“曲馬館” の劇中歌
(1000枚自主製作されたアルバム。
2003年CD化)

1.泪橋哀歌
2.来タレ月光オペラヘ
3.サーカスの唄’74
4.道化の数え歌
5.ハモニカ長屋
6.幻野飛行
7.旅の役者で御座居ます
8.後の祭りの唄
9.炎の舞踏会
10.イヨ・ナンニョンヒ
11.燃ゆる難破船
12.日本乞食オペラのテーマ
13.味噌桶捨てて
14.獄中呪文
15.蛇娘のテーマ
16.世界の果て迄連れてって
17.チンチンブギウギ
18.愚者の謝肉祭のテーマ
19.嘆きの五月
20.サーカスの唄’77
21.別離

オルケスタ・デル・ビエント
『風の旅団・劇中音楽集』(2003)

“風の旅団” の劇中歌
(小間君をはじめ、篠田昌巳や、
大熊亘等のミュージシャンが関わっていた。)

1.道化のテーマ
2.ダイインのテーマ
3.こぶしのテーマ
4.ウルファウストのテーマ
5.ウルファウスト サブテーマ
6.都市生活者の夜
7.シャモのテーマ
8.ハンガーコネクションのテーマ
9.ハンガーコネクション サブテーマ
10.同志は斃れぬ
11.武装天使打令 バラード
12.武装天使打令のテーマ
13.黒くぬれ!サブテーマ
14.モダンタイムズのテーマ
15.黒い九月
16.輝ける道
17.火の鳥のテーマ
18.火の鳥 サブテーマ”野戦の月”
19.海ゆかば
20.野戦の月 変奏
21.王國と覇族”ワッショ”のテーマ
22.王國と覇族 サブテーマ
23.天鼓のテーマ
24.王國と覇族 サブテーマ2
25.オカモトのテーマ
26.復員の海図のテーマ
27.不屈の民
28.ソウルへの道
29.東京マルトゥギのテーマ
30.東京マルトゥギのテーマ2
31.鉄喰い男のうた
32.同志は斃れぬ(篠田昌巳ソロ)

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