70年代後半の関西ライブスポット

まだ、ライブハウス という呼び名も一般的では無かった
70年代初頭

私の地元神戸では、ソネ ガスライト 
と言った伝説的なライブスポットが有ったそうです。
先輩たちから名前だけはよく聞いていたのですが、
さすがに当時中学生だった私には
足を踏み入れることのできない場所でした。

わたし自身のライブハウス体験は、70年代も後半になり、
高校・大学時代になってから

でした。

ランダムですが、個人的に思い出のあるスポットを少々…

神戸・三宮 サンダーハウス

三宮の中心の商業施設ビル センタープラザの地下1階飲食店街に、
普通の飲食店と並んで営業していました。

もちろん防音はしていたはずですが…
当時お金の無い高校生の私たちは、
店からに洩れてきこえる音を、
店の前の地下街通路で聴いていたものでした。

よく、
周りから苦情が来なかったもんだと、
今更ながらに思います。

東京・大阪からのバンドもブッキングしていた、
神戸では貴重なお店でしたが、
あまり長くは営業していなかったように記憶しています。

同じような路線のチキンジョージが、生田神社の脇にオープンするのは、
もう少し後になってからでした。

阪急六甲 アロー

阪急神戸線阪急六甲駅近くの、小さな雑居ビルの3階の一室。
基本は喫茶店(??)で、カウンターと、イス席が少し… 
かなり狭いスペースでした。
ロック喫茶と言うよりは、
当時の全共闘世代のたまり場のようなスペースでした。

地元の情報誌には、
ライブの告知も有ったような記憶も有りますが、

「このスペースでどうやって演奏するの??」と尋ねると、
マスターが指さしたのは窓の外のベランダ!!

窓を開けて、ベランダから店内に向けて演奏していたそうです…

店の外のビルの真中あたりに、
3階から1階まで直通の階段があったりして、
不思議な造りの建物でした。
その階段も、嘘かほんとか解りませんが、

「公安(警察)が来た時の避難路」だったそうです…

ここのマスターが、“ダスター” と呼ばれる、、
関西のロックシーンに少なからず関わる人物でした。

後年、わたしも “ダスター” の企てるイベント
に紛れ込ませてもらう事になりますが、
それはまた別の機会に…

螢ヶ池 クルセイド

阪急宝塚線 螢ヶ池の住宅街、
雑居ビルの一室で、造りは、どう見てもスナック

聴いた話では、当時INUのギタリストだった北田昌宏の、
父親の不動産会社の管理物件を、居抜きで使っていたと言う事でした。

INUの元ギター小間慶太をはじめ、
関学(関西学院)関係の人脈で運営していたはずです。

INUも、ここでも観ていたかもしれませんが、
一番印象に残っているのは、
JOJO広重T.美川“腐食のマリィ” が、
“非常階段”改名してはじめてのギグ
その直後に、東京で初めてのギグを行ったはずです。

さすがに、地元関西の知り合いの店では、
その後のような破壊行為は、まだやっていませんでしたが、

 とにかく うるさい!!


一緒にいた友達が、
怒ってビール瓶をステージに投げつけかけたのを
みんなで止めた覚えがあります…
でも… 
その後の非常階段のパフォーマンスを考えると…

 ビール瓶、投げといても良かったかも?

京都大学 西部講堂

高校生の頃に、生意気にも初めて足を踏み入れた西部講堂
とにかく、すべてが衝撃的でした。

まず外観
元々京都大学の講堂だった建物らしいのですが、
瓦葺きの大きな寺のような建物。
瓦の屋根には大きくペイントが施されていました。
講堂の前の空き地は、舗装もされておらず
あちこちで焚き火も!!

 めちゃくちゃ “無政府” “治外法権” と言った雰囲気!!

中に入ると、椅子も何もない土の床の上に畳がポツリポツリと置かれていて…
そこに座って観ろ…と言う事です。

周りは、年上のちょっとヤバそうな人達が、車座になって酒を飲み
もしかしたら煙草マ○○○も!?

演奏が進むにつれて、酔っているのかラリッているのか、暴れだす輩も。
運営スタッフ(当時は西部講堂連絡協議会 通称 西連協)が、
突然殴りかかって、はがいじめにして叩き出す!!

さらに盛り上がってくると、今で言うサークルモッシュ状態で、
頭上を、酒・ビール・何やかや…が飛び交うという騒乱状態!!

 高校生の我々には、かなり刺激が強い体験でしたが、
 その “あぶなっかしさ” が “クセになりそー!!” でした…

後年、スターリン非常階段合体バンド“スター階段”のライブの際には、
おなじみの、わけのわからん汚物類が会場全体を飛び交い、
床に敷かれていた畳が宙を舞っていたと言う事です!!
参加したスタッフは、1か月ほど匂いが取れなかったとの事…
観に行かなくて良かった…

大阪・寺田町 スタジオあひる

オープンしたのは1980年
寺田町の駅前の、サウナやジャン荘が入った雑居ビルの3階
ステージも客席のキャパも、そこそこ広い店でした。

大学の後半から、社会人になって大阪へ通勤していた頃、
関西ノーウェーヴ(INU、アント・サリー、S.S)の後、
第2~第3世代のバンドの時代

リラダン、螺旋階段、ナシ、ラフィン・ノーズ、アニマルZ、
フナ、人民オリンピックショー、等々…

関西パンク系のライブに、よく通いました。

オープン当時のチラシを見ると、
まだ、パンク系は出演していませんね…

81年頃から、
傾向が変わったのかもしれません。


当時少しだけ関わったバンドの解散ライブも

ここでやらせてもらいました。

その時トリに出て頂いたのが、友部正人さん。
主催していた、元変身キリン本田久作君も好きだったようで、
特別ゲスト扱いで呼んでいたようです。

アンコールの前に、楽屋に戻ってこられた友部さんに、
「アンコール、何かリクエストある?」と聞かれて、
わたしが口ずさんだ「君が欲しい」の出だしの一節
“こころやさしい つきのわぐまが…” を聴いて、
「あっ! それそれ!」と、即採用して唄って頂き、感激したものです

また、本田久作君主催のイベント
(ラストアンサーだったかな?)での事。

シークレットゲストとして、よりによって非常階段を呼び、
イベントの中盤あたりにブッキングしてしまい、
企画した本人の本田君が、
「どないしょおー…ステージむちゃくちゃにされたら… 
後半できんようになる…」

と、本気で心配していたのが忘れられません(笑)

結局、当日の非常階段のステージは、
観客の変な期待を、思い切り裏切って
淡々とした、純粋なノイズパフォーマンスと言えるものでしたが…

ラフィン・ノーズの最初のライブ

もここだったはずです。

まだ、ベースは元ナシPONでは無く、ヨーラン(まぶち君)だった頃。
演奏が始まる直前に、なぜかわたしは空腹を覚え
会場を出て、駅前の立ち食いそば屋へ。
戻って来た時には…


ラフィン・ノーズ 終わってました… (ちょっと残念)

社会人になってから、開演に間に合うように残業を断って
必死で駆け付けた

人民オリンピックショーのギグ。

「ボリス・ヴィアンの憤り」一曲のみ(約10分程度)で終わり!!
アンコール無し!!

周りには、わたしと同じ様にスーツ姿で仕事帰りとおぼしき客もチラホラ。

「なめとんのかぁー!!」
「ええかげんにせぇよ!!」
「金返せ!!」等々…

客席に怒号があふれかえったのは、まぁ、当然といえば当然
客に喧嘩を売ると言うか、裏切ると言うか… 
確信犯的なパフォーマンスだったんでしょうが、

正直… 「それはないやろー…」というギグでした。

84年に閉店
新たに西成・花園町に・移転して、
エッグプラントとして再オープンしました。

西成・花園町 エッグプラント

スタジオあひるのスタッフが、移転してオープンしたのが
このエッグプラントだったはずです。

寺田町も、なかなかのもんでしたが、
西成のど真ん中というのも、なかなか…
冬場に地下鉄花園町駅から地上に出ると
あちこちに、ホームレスの皆さんの焚き火が…

 という、アナーキーな立地

サウナかなにかの建物を改造したスペースで、
ちょっと記憶があやふやですが、
客席がL字型になっていたような…??

でも、それだと後ろの方からステージが見えないし…
たしか、レンタルスタジオも併設していたので、
そのスペースだったのかな?

ヒゴヒロシ氏の チャンス・オペレーション
竹田賢一氏の A-Musik(アー・ムジーク)
等、なぜか地元関西より、
東京のバンドばかり観に行っていた気がします。

閉店時には、建物自体の解体ギグをやったとか…

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