70年代・関西フォーク~関西ロックシーン 補足

ウエストコースト・サザン・ロック の大阪

70年代も後半になると、大阪の音楽シーンは、

 ブルース、R&B、フォンク、
 といったブラック系だけではなく、

イーグルス、ジャクソン・ブラウン に代表される
当時のアサイラム・レーベルを中心にした、

 ウエストコースト系ロック

デュェイン・オールマン
(当時はデュアン・オールマンと呼んでました)が、亡くなった後の、
デッキー・ベッツグレッグ・オールマン主導期のオールマンB.B.の、

 レイドバックしたサザン・ロック

が主流になって来ました。

76年に、雑誌“ POPEYE (ポパイ)”が創刊され、アメリカ西海岸ブームに火がついた頃。
心斎橋のアメリカ村あたりの店舗でも、B.G.M.として好まれていた事や、
サーファー(たいがい陸サーファー)ブームとも、呼応していたと思います。

当時の、アメリカ村や、神戸のセンタープラザの上の階(アメリカ村風…)では、
しょっちゅうオールマン『ブラザー&シスターズ』から、
「ジェシカ」が流れていた気がします。

サザンブリード

スターキング・デリシャスで、
のちにメジャーになる
増田俊郎がボーカルとギターで
参加していたバンド。

シェリフ

サザンブリードをやめた後、
増田俊郎が、元貧苦巣、元オリジナル・ザ・ディランのメンバーと結成。
2000年代に再結成もしているようです。

といったバンドが、地味ながら頑張っていました。
たしか “春一番コンサート” にも出ていたと思います。

最近、東京出身の音楽好きの友達と話していて、改めて知ったのですが、
ジャクソン・ブラウンや、レイドバック期のオールマンB.B. が、
あれほど持てはやされていたのは、関西地区限定の現象だったようです。

特に彼女は、ブリティシュ系を主に聴いてきた人で、
ジャクソン・ブラウンも、オールマンB.B.も、ほとんど聴いたことが無かったので、
むりやり聴かせたところ、意外と…ハマっておりました。
オールマンB.B.を始めて聴いて

 「これ、めんたんぴん じゃん!!」
 という名言(迷言)を頂きました…

ブルースの探究 の京都

京都という街は地理的に少し離れていて
あまり頻繁には足を踏み入れていなかった事もあって、
あくまで、当時の個人的イメージですが、

ウェストロードB.B.以降、
ファッツボトルB.B. ブルースハウスB.B.等、
○○○○○B.B.というネーミングを持った多くのバンドが、
スタイルの違いは有るものの、ブルースという様式の中で、
それぞれの音を極めようとしていたように感じていました。
拾得(じっとく) 磔磔(たくたく) 西部講堂 といった場所にも、
正直、多少閉鎖的な雰囲気を感じていたのも事実です。

後のバンクスに、“西部に籠ってー”と揶揄されることにも…

そして、ハードロック・プログレ の神戸

ちょっと遡って、まだわたしか中学生だった70年代初期
通学路でしょっちゅう見かけたのが、神戸大学で行われていた

 “ロック イン 六甲”

街貼りポスター
( 主に大学などの通学路や学生街の電柱などに、無許可で張られたポスターやビラ)
また、別のイベントだったかもしれませんが、
そういった、中学生には「なんやろ?? これ…」と思われるポスターに
いつも登場していたのが

 エディ、ブーケン & ショー (EBS)
 だるま食道

といった、ロックバンドと言われるバンド名でした。

エディ、ブーケン & ショー (EBS)

 エディ(金井英朗) - ドラム
 ブーケン(山下賢一) ― ギター
 ショー(天野SHO) ― ベース

当時、私の通っていた学校のそばにカナディアンスクールという、
インターナショナルスクールが有ったんですが、
男子校の生徒だったわたしは、部活の関係か何かで、
たまたま週末の金曜の放課後に、カナディアンスクールへ行ったこともありました。
週末のパーティーなんかやっていて、
その自由な雰囲気に、めちゃくちゃ憧れていました。

エディ、ブーケン & ショー は、
このカナディアンスクールのバンドだったと記憶しています。
(すみません、ちょっ不確かな記憶です… 
少なくともエディさんはカナディアンの卒業生のはずです)

チャーリー、ブーケン & ショー という名前にも記憶があります
チャーリーか゛帰国してしまい、エディが跡をついで
エディ、ブーケン&ショウ(EBS) になった。
…という話を聞いたような気がするのですが…
たぶんこの、チャーリーは、
元ザ・ヘルプフル・ソウルで、後年の「ルパン三世のテーマ」で有名な、
 チャーリーコーセー(徐光星)の事だったはずです。
EBSのメンバーとは、同時期に神戸で活動されていたようですので、
臨時のセッションバンドという形のバンドだったのかもしれません。

現役の頃は、実際の演奏を見ることも
音を聴く事もかなわなかったのですが、
後年、再結成時のCDが出でいたはずです。
ちらっと聞かせてもらった、再結成CDの音もそうですし、
Beck, Bogert & Appice タイプのバンド名からも伺い知れる、
ブリティッシュ系のブルースベースの
正統派のハードロツクです!


エディさん、2003に亡くなられたそうですが、
ショーさんと、ブーケンさんは、
今も現役で活動されているようです。

だるま食道

 DARUMA JUN(蔵田ジュン)  ― ギター
 木戸紀行 ― ベース、ボーカル
 河原井マサ ―  キーボード
 関戸ケンジ ー ドラムス

70年から活動していたハードロツクバンド
バンド名のインパクトは、なかなかのもんです!
実際に阪神間の国道沿いにある定食屋の看板からとった名前だとか…

74年8.8 Rock Day にもゲスト出演。
再発CDで、
「夕陽の戦場」「星へ旅する船 」
の2曲を聴くことができます。
(この頃には、メンバーが少し変わっています)

77年2012年再結成しています。

70年代前半の神戸には、
大阪・京都のシーンとは距離を置いた
独自のハードロックのシーンが有ったようです。

ロック イン 六甲はっぴいえんども出た??

たまたま仕事で神戸へ戻ったおりに、
前々から噂に聞いていた、“オン・ザ・ロード” という
アナログレコードだけをかけるロックバーに、立ち寄りました。

お店でかけるのは、基本的に洋楽のみですが、
マスターは、ほぼ同年代で、関西の音楽シーンにも詳しく
70年代の神戸の音楽の話題で盛り上がりました。

マスターが言うには、
「はっぴいえんども、“ロック イン 六甲”に出た」
わたしとしては、
「いや、そのころ毎年、ポスターを見ながら通学してたし
はっぴいえんどが出でらたら、見逃すわけない

その日は、結局はっきりしないままだったのですが…
結局はっぴいえんどは、“ロック イン 六甲” ではなく、
71年神戸大学の学園祭に出でいたようです。

プログレ・ハード系

別の流れでは、

天地創造 後のAin Sophアイン・ソフ
シェラザード 後のノヴェラ
飢餓同盟 後のDADA 4-D 

それぞれ、後のシンフォニック系プログレ
パンクシーンにつながるバンドですが、
当時の甲南大学関系の人脈だったと記憶しています。
(少し不確かな記憶です…)

このあたりのバンドについては、
パンク・ニューウェーヴの時期に知ることになり、
まったくの後追いなもので、
あまり詳しく触れられず… 恐縮です…

そして…70年代後半
わたし自身、中学高校時代に体験した関西の音楽シーンが、
当時ほど熱い物では無くなってきたように感じていました。

ハックルバック以降の、ティン・パン・アレー系も、
いわゆるシティーポップへと変化してゆき、
はっぴいえんどの初期の頃に感じた
ROCK熱い刺激を感じなくなっていました。

そして、大学に進んでからは、
アメリカを中心洋楽へと、興味が移っていく事になります…

多感な10代前半の時期に、
ある意味特に濃い関西の音楽シーンに、
わずかながらでも触れる事ができたことは、
この年になって改めて、幸運な事だったと思っています。

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